メメント森

そのうち攻略情報とか書けたらいいな

男の花道

先日、義兄が永眠した。ガンだった。

 

姉よりひと回り以上歳上で、前妻との間に娘が2人いた。
姉が結婚の報告にきたあと、父は大反対、母と兄はやや反対、俺だけ大賛成、というのが家族の第一印象だった。俺と姉がひと回り離れているので、俺から見ればふた回り歳上。父親なみの年齢差の義兄だ。それ自体は特に何も問題だと感じなかった。俺は基本的に、家族のなかで姉の言うことだけは無条件で賛成することにしている。姉の目に狂いはない。

 

義兄は話好きで、人当たりがよく、飾らず、誠実な人だった。
結婚式こそタキシードを着ていたが、それ以外はいつでもどこでもトレーナーとジーンズ。人となりを知らなければ、「あの人なんの仕事してるんだろ…」と警戒されやすそうな人だった。写真もどれもトレーナーなので、遺影もトレーナーのものが選ばれた。
話すとニコニコしている人だが、写真はいつもなんだか表情が堅い。遺影もそういう、ちょっと居心地が悪そうなぎこちない笑顔で、遺族一同が「ああ、あの人っぽいな」と感じる写真だった。

 

義兄は6人兄弟の末っ子だった。
義兄の家系は非常にややこしく、ちょっとしたドラマになりそうな奇縁がさまざまにあって、末弟である義兄が家督を継いでいた。兄姉が皆実家に寄り付かないタイプで、家長の信頼を失ったからだと想像する。


当然ながら、ある程度の資産があれば相続争いが発生する。それを見越した義兄の父は、さっさと資産を会社名義に移し、義兄以外の兄弟には最低限の財産を指定して、自宅と事業は義兄に相続させる旨を遺言にしたためた。どんなにもめても法的に動かないことがわかった義兄の兄姉は、その後すっかり疎遠になっていく。法事にも祝事にも、それこそ義兄と姉の結婚式にも顔を出さない距離感だった。

 

義兄はそういうことをおくびにも出さないタイプだ。結婚して何年も経つまで、そんな事情をまったく知らなかった。義兄は何事も、妻の実家(つまり俺の実家)を最優先にしてくれた。年末年始やお盆どきはもちろん、些細な法事などもこまめに顔を出してくれる。ことのほか、母を大切にしてくれた。

 

振り返るに、義兄は家族というものに、ある種の憧憬を持っていたのだと思う。自身の血縁はバラバラで、自分も若い頃に一度家庭を持ち、わずか数年で崩壊させたという悔恨もあったのかもしれない。俺のことも、実の弟のように本当にかわいがってくれた。

 

義兄は腕のいい料理人だった。高級料亭の板前を務めたのち、目利きの腕を買われて食材の買い付けや中卸のような事業で成功した。ある程度の成功を得た状態で、姉と再婚したあと、突然仕事を辞めてラーメン屋を始めると言い出した。これには姉も仰天した。懐石料理を作っていた人が突然中華に手を出すわけで、俺も最初は驚いた。

 

姉にたいした相談をすることもなく、義兄は10席ほどの小さい店舗を居抜きで借りて、姉をフル活用し、本当にラーメン屋をはじめた。まだつけ麺自体が珍しかった時代だったせいもあり、店のつけ麺は評判を呼び、周囲の心配をよそに大繁盛した。


一切の宣伝もないまま行列店になり、客がさばけないという理由で営業時間は昼のみになった。調理時間短縮のためメニューも絞るようになった。それでも噂がさらなる行列を呼び、近隣から苦情がくるような状態だった。義兄はもう商業的には成功している状態だったので、事業を拡張する気が一切ない。テレビや雑誌の取材もすべて門前払いしていた。


ところがある日、某有名人が著書で義兄の店を絶賛した。もともとひどくなりつつあった行列が、余計に伸びてしまう悪循環に陥った。席数が少ないとはいえ、夫婦で切り盛りする小さな店は、行列がさばけない。仕方なく義兄はアルバイトを雇ったが、いかにも不本意そうだった。

 

そういう日々に疲れていたのだろう。お客さんから「テレビに出ないの」と(おそらくしつこく)からまれ、義兄は「宣伝で来る客なんて一回しかこないよ。今だって常連さんを待たせてるのにテレビなんてバカバカしい」的な発言をしたらしい。


その後、あの店は態度が悪い、大将は天狗になっていると某巨大掲示板で叩かれるようになった。義兄は職人気質で、仕事中はほぼ無口な人だ。客との会話も最低限だし、常連とも馴れ合わない。そもそも接客しているのは姉だ。姉の接客に対する文句など見たこともないのに。

 

実際には行列はまったく減らなかったので、まさに義兄の言うとおりだったわけだが、なにしろ小さいお店というのは店員(義兄と姉)の日常ともリンクしやすい。個人のグルメブログや口コミサイトには義兄と姉の顔写真が無許可で堂々と掲載され、「大将にインタビューした」という体裁の記事まであった(当然そんなものは受けていない。おそらくちょっとした雑談を切り貼りした改変か捏造)。当時は自称グルメサイトの運営者がずいぶん食べにきたようだ。軽く検索しただけでも、かなりそういったサイトを見かけた。それらのサイトのいくつかは、義兄の対応をあしざまに書いていた。おそらく取材を断ったのだろう。さらには、姉が閉店後に犬の散歩をしているとき、故意か偶然かは不明だが、住居を特定した人までいた(姉夫婦は店からは離れたテナントビルの最上階に住んでおり、1階の店舗の関係者と勘違いされてその店を特定された)。この恐怖感がわかるだろうか。

 

義兄のマスコミ嫌い、ネット嫌いはこの頃にピークになった。毎朝4時に起きてスープを仕込むのも体がしんどいということで、繁盛していたラーメン屋はさっさと畳んでしまった。
※クチコミサイトには今でも掲載されている。客が勝手に情報を入れて、サイトには「店舗関係者は連絡ください」とあるタイプだ。連絡すると広告営業をされる。すごいビジネスだ。

 

義兄は1年ほど悠々自適のリタイア生活を楽しんだあと、一念発起し、今度は串焼き屋をはじめた。当時はまだ珍しい、希少部位を1串単位で注文でき、カウンターでその都度串打ちして焼き上げるタイプの店だ。いい肉の仕入れルートに精通していたため、ラーメン屋に比べれば理解できる選択ではあったが、姉は「今からまたお店やるの!?」とドン引きしていた。しかし義兄の商才は本物で、これがまた行列店に成長する。しかしお酒を出す店という性質上、夜遅くまで営業を続けるのは困難ということで、この店は1~2年ほどで甥っ子に全部譲渡してしまった。ちなみにその甥っ子の父は義兄の兄。義兄はその兄とは犬猿の仲だった。相続でさんざん揉めたからだと聞いている。だが甥っ子には関係のないことだ、継いでくれるならと無償で譲渡したそうだ。

 

今度こそリタイア生活を謳歌しようか、となった頃、疎遠だった義兄の姉が病気で要介護の状態になった。その姉は子供がなく、夫にも先立たれていたため、ほぼ孤独な状態だった。その疎遠だった姉に対し、義兄は「じゃあうちで面倒を見よう」と言い出した。介護するのは俺の姉だ。さすがに姉は反対したが、義兄はきかない。姉はしぶしぶ、ほとんど縁のなかった義兄の姉のシモの世話までして数年を過ごした。やがて認知症になってしまったため、義兄が全額負担して老人ホームに入居した。もう誰の顔もわからないし会話もできないが、今も存命だと聞く。

 

俺の母はこの義兄の決断にひどく怒っていたし、俺も内心ではそれはどうなのかと感じていた。そういう部分では義兄は古い体質の人間だった。自分が家長である以上、疎遠であっても姉の面倒を見るのは自分であるべきで、姉は女なのでその介護は妻(俺の姉)がするのが筋である、と引かなかった。

 

その頃、義兄が実子2人の養育費以外に、前妻にもずっと生活費を振り込んでいたことも判明した。離婚してから前妻にも娘2人にもほぼ連絡をとっておらず、すでに子も成人していたが、自動振込だけはずっと続けていた。義兄は驚くほど質素な生活を好み、無駄使いをしないしカードも使わない。財布にもあまりお金を入れない。姉は義兄が入院するまで、収入も財産もまったく知らなかったそうだ。なにしろ姉も、1従業員としての給料をもらって、それを生活費にあてていたほどだ。本当の意味で質素な生活を好む人だった。

 

義兄の姉がホームに転居したことで、姉夫婦にようやく平穏な日々が訪れた。もうお店はやらないから、みんなで旅行しようね、とよく話し合っていた。
結局、それが実現することはなかった。ほどなく、義兄にガンが発覚する。

 

義兄は絶対に病気や入院を外に漏らさない人だった。知られていないので、誰もお見舞いに行くことができない。必ず、退院してから知ることになる。すべての面倒を姉に見させるのが義兄の哲学だった。

 

ガンのこともひた隠しにしていたが、どうも手術もできそうにない、助からないかもしれない、となったとき、姉がこっそりと打ち明けてくれた。だが俺が知っていることを義兄が知れば、おそらく義兄は本気で怒るだろう。
一度もお見舞いに行けないまま、やがて義兄は退院した。
もう治る見込みがないと察した義兄は、病院での終末期医療を嫌がり、自宅で死ぬことを決めた。

 

週に一度くらいは体調がいい日があり、そういう日を姉から教わって、俺も何度か姉の家に顔を出した。もう義兄は長時間歩けなかったので、じゃあ俺が犬の散歩に行きますね、という体裁をとっていた。

 

義兄の容態は日に日に悪くなり、訪問介護士さんや24時間対応してくれる医師の協力も得てはいたものの、姉が24時間介護していた。何度も呼吸が止まり、鼻水がつまり、タンがからみ、それでも生死の境をさまよいながら、義兄は懸命に生きた。

 

あとになって知ったことだが、犬の散歩で顔を合わせていたのは親族で俺だけだった。
義兄は知人にも取引先にも血縁にも、本当に最後の最後まで、何ひとつ連絡しなかった。姉はもう介護疲れでボロボロになっていたし、家業のことが何もわからないうえ、義兄の人間関係もおぼつかない。このまま死んでしまったらどうすればいいのかと途方に暮れていた。

 

義兄が永眠する二週間前ほど前、義兄がたまたま体調がいいと言って、俺が犬を散歩に連れ出すとき、10分ほど一緒に歩いたことがある。それが最後に見た義兄の姿だった。俺はもう胸がいっぱいで、うまく会話を弾ませることができず、本当に他愛のない会話しかしなかった。遺言らしきものもない。姉をよろしく、くらいは聞きたかった。愛犬のクセや、お気に入りのルートの紹介、俺の仕事についての質問、そんなことだけ話しながら、いつもの道を少しだけ一緒に歩いた。


その数日後から、義兄は昏睡状態になった。実質的な姉への遺言が「誰にも会いたくない」だったため、本人の希望どおり姉が1人で看取った。


義兄の気持ちは少しだけわかる。
病気を知られたくない、衰弱した姿を見られたくない。
お別れの挨拶もしたくないし、心配や面倒をかけたくない。
俺も何度か入院しているが、妻以外の誰にも一切言わなかった。
義兄との決定的な違いは、妻にも見舞いに来てほしくないことだろうか。
自分が逝くときは、病院がいい。

 

姉は義兄の最期が近づくにつれて、義兄の秘密主義が信じられない、みんなから責められるのは私なのに、と苦悩していた。その気持ちもわかるが、それでもやはり、俺の感覚では義兄のほうが近い。
義兄は、妻にだけは素っ裸の自分を見せていい、それ以外はもうすべてどうでもよい、という境地にいたのだろう。
それが義兄の矜持であり、美学だったんだろうなとしみじみ思う。

 

義兄はまわりにどう思われようが何も気にしない、わが道を行く人だった。姉に対してはどんなわがままも堂々と通した。
うちの親族で愛煙家は俺と義兄だけだったので、俺の実家にも義兄の家にも、義兄と俺のためだけの専用灰皿がある。
義兄はもうほとんど食事がとれなくなってからも、ベランダでタバコを吸っていたそうだ。
歩けないので姉に肩を借りて。
煙を吸い込めないのでふかすだけで。
唇の感覚がないため、ヤケドをしないよう、唇に薬用リップをべったりつけて。

 

実の兄弟とは疎遠で、姉との間に子もなかった義兄の生涯は、姉の胸のなかにだけ刻まれて、どこにも記録に残らない。
でも義兄はとてもいい人生を送ったのだと確信している。
誠実で、職人肌で、商才があって、妻にはちょっぴり亭主関白で、でも決して姉に寂しい思いをさせなかった、素晴らしい人物が死んだ。
誰にも知られないのはもったいないので、義理の弟が、ここにひっそりと書き残しておこうと思う。


にーさん、おつかれさまでした。
ねーちゃんを大切にしてくれてありがとう。
でも100点はあげない。
ちょっと早かったもの。
ねーちゃん毎日泣いてるから99点。

どうかやすらかに。