メメント森

そのうち攻略情報とか書けたらいいな

男の花道

先日、義兄が永眠した。ガンだった。

 

姉よりひと回り以上歳上で、前妻との間に娘が2人いた。
姉が結婚の報告にきたあと、父は大反対、母と兄はやや反対、俺だけ大賛成、というのが家族の第一印象だった。俺と姉がひと回り離れているので、俺から見ればふた回り歳上。父親なみの年齢差の義兄だ。それ自体は特に何も問題だと感じなかった。俺は基本的に、家族のなかで姉の言うことだけは無条件で賛成することにしている。姉の目に狂いはない。

 

義兄は話好きで、人当たりがよく、飾らず、誠実な人だった。
結婚式こそタキシードを着ていたが、それ以外はいつでもどこでもトレーナーとジーンズ。人となりを知らなければ、「あの人なんの仕事してるんだろ…」と警戒されやすそうな人だった。写真もどれもトレーナーなので、遺影もトレーナーのものが選ばれた。
話すとニコニコしている人だが、写真はいつもなんだか表情が堅い。遺影もそういう、ちょっと居心地が悪そうなぎこちない笑顔で、遺族一同が「ああ、あの人っぽいな」と感じる写真だった。

 

義兄は6人兄弟の末っ子だった。
義兄の家系は非常にややこしく、ちょっとしたドラマになりそうな奇縁がさまざまにあって、末弟である義兄が家督を継いでいた。兄姉が皆実家に寄り付かないタイプで、家長の信頼を失ったからだと想像する。


当然ながら、ある程度の資産があれば相続争いが発生する。それを見越した義兄の父は、さっさと資産を会社名義に移し、義兄以外の兄弟には最低限の財産を指定して、自宅と事業は義兄に相続させる旨を遺言にしたためた。どんなにもめても法的に動かないことがわかった義兄の兄姉は、その後すっかり疎遠になっていく。法事にも祝事にも、それこそ義兄と姉の結婚式にも顔を出さない距離感だった。

 

義兄はそういうことをおくびにも出さないタイプだ。結婚して何年も経つまで、そんな事情をまったく知らなかった。義兄は何事も、妻の実家(つまり俺の実家)を最優先にしてくれた。年末年始やお盆どきはもちろん、些細な法事などもこまめに顔を出してくれる。ことのほか、母を大切にしてくれた。

 

振り返るに、義兄は家族というものに、ある種の憧憬を持っていたのだと思う。自身の血縁はバラバラで、自分も若い頃に一度家庭を持ち、わずか数年で崩壊させたという悔恨もあったのかもしれない。俺のことも、実の弟のように本当にかわいがってくれた。

 

義兄は腕のいい料理人だった。高級料亭の板前を務めたのち、目利きの腕を買われて食材の買い付けや中卸のような事業で成功した。ある程度の成功を得た状態で、姉と再婚したあと、突然仕事を辞めてラーメン屋を始めると言い出した。これには姉も仰天した。懐石料理を作っていた人が突然中華に手を出すわけで、俺も最初は驚いた。

 

姉にたいした相談をすることもなく、義兄は10席ほどの小さい店舗を居抜きで借りて、姉をフル活用し、本当にラーメン屋をはじめた。まだつけ麺自体が珍しかった時代だったせいもあり、店のつけ麺は評判を呼び、周囲の心配をよそに大繁盛した。


一切の宣伝もないまま行列店になり、客がさばけないという理由で営業時間は昼のみになった。調理時間短縮のためメニューも絞るようになった。それでも噂がさらなる行列を呼び、近隣から苦情がくるような状態だった。義兄はもう商業的には成功している状態だったので、事業を拡張する気が一切ない。テレビや雑誌の取材もすべて門前払いしていた。


ところがある日、某有名人が著書で義兄の店を絶賛した。もともとひどくなりつつあった行列が、余計に伸びてしまう悪循環に陥った。席数が少ないとはいえ、夫婦で切り盛りする小さな店は、行列がさばけない。仕方なく義兄はアルバイトを雇ったが、いかにも不本意そうだった。

 

そういう日々に疲れていたのだろう。お客さんから「テレビに出ないの」と(おそらくしつこく)からまれ、義兄は「宣伝で来る客なんて一回しかこないよ。今だって常連さんを待たせてるのにテレビなんてバカバカしい」的な発言をしたらしい。


その後、あの店は態度が悪い、大将は天狗になっていると某巨大掲示板で叩かれるようになった。義兄は職人気質で、仕事中はほぼ無口な人だ。客との会話も最低限だし、常連とも馴れ合わない。そもそも接客しているのは姉だ。姉の接客に対する文句など見たこともないのに。

 

実際には行列はまったく減らなかったので、まさに義兄の言うとおりだったわけだが、なにしろ小さいお店というのは店員(義兄と姉)の日常ともリンクしやすい。個人のグルメブログや口コミサイトには義兄と姉の顔写真が無許可で堂々と掲載され、「大将にインタビューした」という体裁の記事まであった(当然そんなものは受けていない。おそらくちょっとした雑談を切り貼りした改変か捏造)。当時は自称グルメサイトの運営者がずいぶん食べにきたようだ。軽く検索しただけでも、かなりそういったサイトを見かけた。それらのサイトのいくつかは、義兄の対応をあしざまに書いていた。おそらく取材を断ったのだろう。さらには、姉が閉店後に犬の散歩をしているとき、故意か偶然かは不明だが、住居を特定した人までいた(姉夫婦は店からは離れたテナントビルの最上階に住んでおり、1階の店舗の関係者と勘違いされてその店を特定された)。この恐怖感がわかるだろうか。

 

義兄のマスコミ嫌い、ネット嫌いはこの頃にピークになった。毎朝4時に起きてスープを仕込むのも体がしんどいということで、繁盛していたラーメン屋はさっさと畳んでしまった。
※クチコミサイトには今でも掲載されている。客が勝手に情報を入れて、サイトには「店舗関係者は連絡ください」とあるタイプだ。連絡すると広告営業をされる。すごいビジネスだ。

 

義兄は1年ほど悠々自適のリタイア生活を楽しんだあと、一念発起し、今度は串焼き屋をはじめた。当時はまだ珍しい、希少部位を1串単位で注文でき、カウンターでその都度串打ちして焼き上げるタイプの店だ。いい肉の仕入れルートに精通していたため、ラーメン屋に比べれば理解できる選択ではあったが、姉は「今からまたお店やるの!?」とドン引きしていた。しかし義兄の商才は本物で、これがまた行列店に成長する。しかしお酒を出す店という性質上、夜遅くまで営業を続けるのは困難ということで、この店は1~2年ほどで甥っ子に全部譲渡してしまった。ちなみにその甥っ子の父は義兄の兄。義兄はその兄とは犬猿の仲だった。相続でさんざん揉めたからだと聞いている。だが甥っ子には関係のないことだ、継いでくれるならと無償で譲渡したそうだ。

 

今度こそリタイア生活を謳歌しようか、となった頃、疎遠だった義兄の姉が病気で要介護の状態になった。その姉は子供がなく、夫にも先立たれていたため、ほぼ孤独な状態だった。その疎遠だった姉に対し、義兄は「じゃあうちで面倒を見よう」と言い出した。介護するのは俺の姉だ。さすがに姉は反対したが、義兄はきかない。姉はしぶしぶ、ほとんど縁のなかった義兄の姉のシモの世話までして数年を過ごした。やがて認知症になってしまったため、義兄が全額負担して老人ホームに入居した。もう誰の顔もわからないし会話もできないが、今も存命だと聞く。

 

俺の母はこの義兄の決断にひどく怒っていたし、俺も内心ではそれはどうなのかと感じていた。そういう部分では義兄は古い体質の人間だった。自分が家長である以上、疎遠であっても姉の面倒を見るのは自分であるべきで、姉は女なのでその介護は妻(俺の姉)がするのが筋である、と引かなかった。

 

その頃、義兄が実子2人の養育費以外に、前妻にもずっと生活費を振り込んでいたことも判明した。離婚してから前妻にも娘2人にもほぼ連絡をとっておらず、すでに子も成人していたが、自動振込だけはずっと続けていた。義兄は驚くほど質素な生活を好み、無駄使いをしないしカードも使わない。財布にもあまりお金を入れない。姉は義兄が入院するまで、収入も財産もまったく知らなかったそうだ。なにしろ姉も、1従業員としての給料をもらって、それを生活費にあてていたほどだ。本当の意味で質素な生活を好む人だった。

 

義兄の姉がホームに転居したことで、姉夫婦にようやく平穏な日々が訪れた。もうお店はやらないから、みんなで旅行しようね、とよく話し合っていた。
結局、それが実現することはなかった。ほどなく、義兄にガンが発覚する。

 

義兄は絶対に病気や入院を外に漏らさない人だった。知られていないので、誰もお見舞いに行くことができない。必ず、退院してから知ることになる。すべての面倒を姉に見させるのが義兄の哲学だった。

 

ガンのこともひた隠しにしていたが、どうも手術もできそうにない、助からないかもしれない、となったとき、姉がこっそりと打ち明けてくれた。だが俺が知っていることを義兄が知れば、おそらく義兄は本気で怒るだろう。
一度もお見舞いに行けないまま、やがて義兄は退院した。
もう治る見込みがないと察した義兄は、病院での終末期医療を嫌がり、自宅で死ぬことを決めた。

 

週に一度くらいは体調がいい日があり、そういう日を姉から教わって、俺も何度か姉の家に顔を出した。もう義兄は長時間歩けなかったので、じゃあ俺が犬の散歩に行きますね、という体裁をとっていた。

 

義兄の容態は日に日に悪くなり、訪問介護士さんや24時間対応してくれる医師の協力も得てはいたものの、姉が24時間介護していた。何度も呼吸が止まり、鼻水がつまり、タンがからみ、それでも生死の境をさまよいながら、義兄は懸命に生きた。

 

あとになって知ったことだが、犬の散歩で顔を合わせていたのは親族で俺だけだった。
義兄は知人にも取引先にも血縁にも、本当に最後の最後まで、何ひとつ連絡しなかった。姉はもう介護疲れでボロボロになっていたし、家業のことが何もわからないうえ、義兄の人間関係もおぼつかない。このまま死んでしまったらどうすればいいのかと途方に暮れていた。

 

義兄が永眠する二週間前ほど前、義兄がたまたま体調がいいと言って、俺が犬を散歩に連れ出すとき、10分ほど一緒に歩いたことがある。それが最後に見た義兄の姿だった。俺はもう胸がいっぱいで、うまく会話を弾ませることができず、本当に他愛のない会話しかしなかった。遺言らしきものもない。姉をよろしく、くらいは聞きたかった。愛犬のクセや、お気に入りのルートの紹介、俺の仕事についての質問、そんなことだけ話しながら、いつもの道を少しだけ一緒に歩いた。


その数日後から、義兄は昏睡状態になった。実質的な姉への遺言が「誰にも会いたくない」だったため、本人の希望どおり姉が1人で看取った。


義兄の気持ちは少しだけわかる。
病気を知られたくない、衰弱した姿を見られたくない。
お別れの挨拶もしたくないし、心配や面倒をかけたくない。
俺も何度か入院しているが、妻以外の誰にも一切言わなかった。
義兄との決定的な違いは、妻にも見舞いに来てほしくないことだろうか。
自分が逝くときは、病院がいい。

 

姉は義兄の最期が近づくにつれて、義兄の秘密主義が信じられない、みんなから責められるのは私なのに、と苦悩していた。その気持ちもわかるが、それでもやはり、俺の感覚では義兄のほうが近い。
義兄は、妻にだけは素っ裸の自分を見せていい、それ以外はもうすべてどうでもよい、という境地にいたのだろう。
それが義兄の矜持であり、美学だったんだろうなとしみじみ思う。

 

義兄はまわりにどう思われようが何も気にしない、わが道を行く人だった。姉に対してはどんなわがままも堂々と通した。
うちの親族で愛煙家は俺と義兄だけだったので、俺の実家にも義兄の家にも、義兄と俺のためだけの専用灰皿がある。
義兄はもうほとんど食事がとれなくなってからも、ベランダでタバコを吸っていたそうだ。
歩けないので姉に肩を借りて。
煙を吸い込めないのでふかすだけで。
唇の感覚がないため、ヤケドをしないよう、唇に薬用リップをべったりつけて。

 

実の兄弟とは疎遠で、姉との間に子もなかった義兄の生涯は、姉の胸のなかにだけ刻まれて、どこにも記録に残らない。
でも義兄はとてもいい人生を送ったのだと確信している。
誠実で、職人肌で、商才があって、妻にはちょっぴり亭主関白で、でも決して姉に寂しい思いをさせなかった、素晴らしい人物が死んだ。
誰にも知られないのはもったいないので、義理の弟が、ここにひっそりと書き残しておこうと思う。


にーさん、おつかれさまでした。
ねーちゃんを大切にしてくれてありがとう。
でも100点はあげない。
ちょっと早かったもの。
ねーちゃん毎日泣いてるから99点。

どうかやすらかに。

おもいでエマノンという病

梶尾真治の小説を鶴田謙二がコミカライズした『おもいでエマノン』という作品がある。発行は2008年、約14年前の本だ。


主人公の青年が船で出会った少女との1日を描いたSF短編で、SFである以上、あらすじはあまり細かく紹介できない。1冊完結なので、もし興味がわいたら一読をおすすめしたい。
※続編も刊行されているが、最初の1冊できちんと完結している。

 

この作品が発売された時期は、すでに結婚して一人旅をほぼしなくなっていた頃だった。だから作品になにか大きな影響を受けたということは特にない。

 

十代の頃から一人旅をするのが好きで、よく夜行バスでほぼ手ぶらの旅行をしていた。目的もなく、知らない土地をフラフラするだけのチープなプチ旅行。見知らぬ住宅地を歩いたり、さして興味もない郷土資料館に入ったり、ボロいゲーセンに行く。当時はネットカフェもマンガ喫茶もなかったが、だいたい夜行バスの行き先には朝まであいているサウナ施設があったので、そこに泊まるか夜行バスで帰っていた。

 

何回かは無駄にドラマチックな経験もしたが、9割の旅はたいしたエピソードもない。平凡で退屈な旅だった。ひたすら歩いていた。カメラ趣味がないので写真もないし、携帯電話で写真も撮れない時代だから、今ならもう少し記憶に残る行動もできたかもしれない。少しだけ残念に思う。

 

長距離の移動をしていると、たまに似たような単独旅行者と知り合うことがある。お互い単身の気軽さもあって、目的地まで話が弾むこともあった。『おもいでエマノン』をはじめて読んだとき、そんな旅を思い出すとともに、うまく言語化できない感傷的な気持ちがわきあがった。

 

エマノン”というのは、ヒロインの女の子がとっさに名乗った偽名だ。nonameを逆にしただけの簡素なネーミングだが、不思議と印象に残る響きで、この作品は“エマノン”という名前をつけた時点で傑作になる資格を得ていると思う。

 

そして、鶴田謙二という異才が、コミカライズで彼女に息を吹き込んだ。素朴な線、粗い作風、どこか感傷的で情緒のある風景描写。ほんの少しの眉の動きや顔の角度で、吹き出しがないコマにもありありと浮かび上がる豊かな感情。劇画風とも美少女絵とも違う、生き生きと描かれるコミカライズのエマノンは、最高に魅力的だった。

 

無造作な黒髪ロングで、ラフなシャツにジーンズ、くわえ煙草がトレードマークで大酒飲みの少女が、ソバカス顔を崩してニカっと笑う。誰とも話さない一人旅をしているときに、こんな出会いがあったらどんなに素敵だろう。

 

一人旅で何もせずにボーッとしているとき、先にこの作品を読んでいたら、きっと自分はエマノンを妄想せずにいられなかった。もしかしたら、持て余したヒマな時間のなかで、妄想ばかりが膨らんで孤独が辛かったかもしれない。どこにもいないエマノンを求めて、一人旅の女性に無駄に話しかけたかもしれない。なにより、最高に無味乾燥で、ひたすら時間の無駄だった大好きな旅の時間が、まったく別の意味を持ってしまったかもしれない。

 

ある程度歳をとると、本当に空っぽの時間を持つことはなかなか難しくなる。実際には、やればできるのだろう。さまざまな予定やしがらみをやりくりして、数日の休みをとる。でもせっかくの休みだからと予定を詰めたり、ただ無為に寝て過ごしてしまう。こんなのは、結局のところ自分の責任だ。若くて、健康で、お金がなかった頃は、何も考えず席がとれた夜行バスに適当に乗っていた。そうして、たくさんの空っぽの時間を過ごしてきた。その全部があって、今の自分がある。あの頃、『おもいでエマノン』を知らなくてよかった。

 

エマノンを知ったあとでも、ときどき出張や旅行で遠出をする。妻と行くこともあれば、1人のこともある。1人でまとまった時間を持つことはとても大切だと考えている。自宅や職場でなければなお良い。何にも縛られず、何もしない時間でしか思い至らない思考がある。それは脳みそのどこかにあって、日常からは遠ざかってしまっている回路だ。

 

コロナ禍のもとで完全テレワークに移行し、妻は日中は仕事に出ているので、家で1人で過ごすことが増えた。1人暮らしをしていた頃は、ほぼ会社に泊まっているか、友人連中がひっきりなしに泊まりにきていたので、「家で1人で過ごす」記憶があまりない。だから現状は十分に非日常的だとは思う。それでも、何もしない時間をうまく作れない。頭が空っぽにならないし、上手な空想もできない。エマノンに会えることもなさそうだ。

 

『おもいでエマノン』は、カテゴリとしてはSFモチーフのボーイ・ミーツ・ガールにくくられるのだろうか。決して甘いロマンスではないし、清涼な読後感もない。ただ、不思議と記憶に残る。平凡な主人公が、なぜか魅力的なヒロインと巡り合うという構図は、もしかしたらシンデレラ・ストーリー的なテンプレ妄想なのかもしれない。

 

そんなことを思いながら『おもいでエマノン』のラストシーンをふと思い出し、ひさびさに読み返した。物語のオチの部分なので内容は割愛するが、刊行当時と比べてエンディングの主人公の心境がずいぶんと共感できるようになっていた。自分の昔の記憶を振り返るに、当時はなんとも思わなかったささいなエピソードが、何年もあとになって強く印象に残っていることは多い。たぶん、こんな駄文を書いている今の自分も、また時間がたって振り返れば小さなドラマをたくさん持っているのだろう。

フラワーカンパニーズの「深夜高速」という曲に、こんなフレーズがある。

 

年をとったらとるだけ増えていくものは何?
年をとったらとるだけ透き通る場所はどこ?

 

フラカンの持ち味は、青臭くてまっすぐで切実な想いを、少しシニカルさを残しつつも決して諦観せずに表現するスタンスにあると思っている。深夜高速はその代表曲。この曲の歌い出しは「青春ごっこを今も続けながら旅の途中」というフレーズで、前述したフレーズは2番の歌い出しにあたる。あまり短絡的に書くのは気が引けるが、長い人生を俯瞰したとき、全部肯定していこう、という歌だと解釈している。

https://www.youtube.com/watch?v=Ihjr5Xz31sI

50代に入ったフラカンが2020年に収録した深夜高速。CD音源とは全然違う味わいがある。若い人たちが聴くと古臭いだろうか。少し歳をとってから聴くと違って感じるだろうか。

 

何年かおきに、不思議と思い出す曲がある。自分にとって、深夜高速はそういう曲の1つ。これといって大きなトピックもないありふれた平日の深夜に、ふとしたきっかけで好きなマンガを読み返して、好きな曲を聞き返す。そんなに悪くない1日だった。

成人式の思い出

一番の親友だった奴がいた。ここではWとする。

Wは肥満児で運動音痴、成績も常に下のほうだったが、明るくて面白く、ゲームとイラストが抜群にうまかった。席も家も近かったのですぐ仲良くなり、小学校6年間はずっと同じクラスだった。中学ではクラスこそ離れたものの、ずっと一緒だった。

 

当時の俺は朝から晩まで野球バカだったけれども、Wと遊ぶ時間だけは別枠にしていた。Wの影響でゲームをやりこむようになり、夢中でマンガを描いた。ハイスコアノートを作って連日勝負し、毎日ゴミのようなリレーマンガを描いていた。

 

 

別々の高校に進んだあと、Wはすっかり身長が伸びて標準体型になり、急にモテるようになった。お人好しだったWは、いつも悪い女にひっかかり、ろくでもない目にあっていた。たくさん騙され、死ぬほどバイトし、それでも痛い目にあっては、俺のところに愚痴をこぼしにきていた。それを笑って聞き流しては、一緒にゲーセンにいくのが定番だった。

 

やがて、Wに年上の彼女ができた。物腰の柔らかい、信用できそうな、魅力的な女性だった。複雑な家庭環境だったWは、高校卒業と同時に就職し、彼女と暮らすことに決めた。同じく複雑な家庭環境のため、家を出て働く予定だった俺には、それはとても眩しく見えた。

 

Wが静岡に引っ越したあとも、連絡をとりあってちょこちょこ会いに行った。「最近なんのゲームやってる?」「最近絵は描いてる?」と、ささいな話をして、なにか対戦ゲームをして、Wの家に常備している落書き帳にいたずら描きをして帰る。お互いカネがないので、観光はおろか外食もほとんどしなかった。それでも存分に、ささやかな再会を楽しんだ。

 

Wが19になった頃、子供ができた。翌年入籍。仲間内でも飛び抜けて早かったので驚いたが、幸せそうな2人はうらやましかった。式もパーティもなかったので、仲の良かったメンバーでカンパし、精一杯の祝儀を包んだ。

 

成人式の日、Wは東京に戻ってくるはずだったが、出産と転勤が重なったバタバタで帰省できないと連絡があった。残念だったが、ちょくちょく会っていたこともあり、当時は「まあ仕方ないよね」と軽い対応だった。成人式当日に集まった同級生連中とは、Wの話で朝まで盛り上がった。みんなWが大好きだった。

 

19で子に恵まれ、20で結婚したWは、21で死んだ。

 

ごく平凡なゆるい右カーブで、Wの車は電柱に激突した。単独事故だった。なにかを避けたのかもしれないし、寝ていたのかもしれない。原因は知らない。

成人式に行けない、という電話が、Wとの最後の会話になった。

 

訃報を聞いて、すぐに仕事を休み、静岡に向かった。駅から遠く、不便な場所の、ごく小さい部屋。ささやかな赤ちゃんグッズが部屋を明るく見せていたが、苦しい生活であったことは容易にわかる。奥さんは憔悴しきっていた。

 

転職から間もなかったWは、周囲に知り合いもおらず、奥さんは生まれたばかりの赤子につきっきりだったので、よくわからないままいろいろなことを手伝った。ほぼ絶縁状態だったWの父と、仕事を辞めて収入がない奥さんは、お互いにWの墓地や葬儀費用を押し付けあっていた。その横で、どうにもならない論争を聞いていた。なにもかもが嫌になったが、なにしろ床ではWが死んでいる。生きている人間は、できることをしなければいけない。

 

人間は突然死んでしまうのだ。遺言もないし、形見分けもなかった。Wが東京を離れるとき、思い出にと持っていった俺との大量のリレーマンガも、すべて廃棄されてしまった。貸したマンガやゲームも戻らない。売られて、少しはミルク代の足しになったのだろうか。

 

奥さんは連絡先を告げずに引っ越してしまった。一周忌が近づいても、呼ばれることもなかった。だからその後の連絡先はわからない。もしかしたら、アパートの大家さんにあたれば、調べる方法もあったのかもしれない。でも、俺も含め、友人連中は誰も探さなかった。墓の場所も知らない。ただ、仲のよかった連中で集まって、朝までWの思い出を語りながら一周忌を過ごした。やるせない気持ちがあふれて、みんな顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。

 

Wは一番の親友だった。死んじまったから、もうずっと一番だ。

 

20歳だった頃の自分の記憶はもうだいぶあやふやになった。それでも、Wが死んだ日のことは明確に覚えている。そして必ず、その日とセットで、Wと会うはずだった成人式のことを思い出す。

 

Wと知り合わなければ、たぶんゲームもマンガも、今ほど好きになることはなかっただろう。でも知り合ったおかげで、いくつになってもゲームが好きなままでいられた。今日もゲームで楽しく遊び、そういえば成人の日だったっけ、と思い立ってこんな昔話を書いている。あまり楽しい話題ではないけれども、こういうきっかけでときどき思い出すのは、忘れてしまうよりずっといい。

ネトゲの世界の一期一会

1年間、こつこつ遊んできたゲームの同盟が解散した。

ゲーム自体はまだ続く。でも自分が遊ぶペースは劇的に落ちるだろうな、と人ごとのように思う。

 

PCゲームなので、コミュニケーションはdiscordがメイン。70人以上いる大所帯で、サーバ1位も何度か取った、それなりに強豪の一角だった。

 

同盟内の仲がよく、幹部陣の人柄もよく、1日中チャットが賑やかで、本当にいい同盟だった。たぶん別の同盟だったら、とっくに引退していただろうと思う。戦争専門の武闘派も、作戦行動メインの人も、チャット勢も、いわゆる農民も、みんな自由にマイペースで遊んでいたし、結果もついてきていた。他同盟からの移籍者も多く、うまくいく要素しかなかった。

 

それでも、解散する。

 

マンネリ感もあっただろうし、コロナ騒動も手伝って、みんなのリアル環境が変わっていった。サーバ中に恐れられた強豪のイン頻度が減り、大手の競合同盟がじわじわ衰退し、うちの同盟も静かにペースが落ちていった。チャットだけしているメンバーも増えたし、ゲームにはインしてチャットに参加しない人も増えた。さまざまな理由で、ゲームへのモチベーションがゆるやかに落ちていったんだと思う。

 

解散にいたるまでの小さな事件はいくつかあった。チャットメインのゲームには付き物なので、そこには触れない。人間が複数集まれば、衝突もあるし、趣味の相違もある。その機微を受け入れる人もいれば、そこだけは許せない一線を超える人もいる。その線を引く位置もみんな違う。だから少しずつ終わっていく。

 

それにしても、不思議な解散だな、とは思う。

決定的な理由はなかった。

 

メインの数人が引退し、その寂しさは当然あるにせよ、残ったメンバーはそれでもマイペースに楽しく遊んでいた。アクティブ勢が少しずつのんびりに移行していくなかで、シーズン終了の2週間くらい前だろうか、役職者の間で「今期で解散しようか」という声が出た。

 

同盟員からは、もったいない、という声もたくさんあがった。けれども、絶対的に拒否という声はあがらなかった。他同盟のフレンドや、もともとうちの同盟にいて別同盟に移籍した人の人脈などを通じて、毎日少しずつ、次シーズンの所属先が決まったという声が増えていく。決まってよかったね、と声をかけあいながらも、雑談ルームでは相変わらずのバカ話に花を咲かせていた。

 

この同盟が解散するなら、自分はここで幕を引きますと、引退する人も少なくない人数になった。たぶん、心のどこかで、引き際を考えながら日々を過ごしてたんだろうと思う。正直な気持ちとして、自分もそうだった。

 

ゲームに飽きたわけではない。でも、リアルタイムの戦争シミュレーションである以上、インしている時間が戦力とほぼ比例する。自分は幹部でもあったので、多忙になってイン頻度が落ちることに、ずっと抵抗感があった。数日インできなくなるたび、何度も引退を考えた。役職の辞退も申し出た(※役職報酬が大きいゲームなので)。それを通すと他の多忙な人も気まずいから、とたしなめられて、結局シーズン1から解散までズルズルと幹部に留まってしまった。

 

たぶん、自分がゆるやかに最前線から引きつつあったことも、解散につながった一つの要因なのかな、と感じている。自意識過剰かもしれないけれども。よくも悪くも、攻略勢でチャット勢だったので、インが薄くなれば悪目立ちするかなと感じていた。

 

世の中に協力や対人戦を楽しむゲームは数あれど、普通はその場限りでなにかしらの決着がつき、その積み重ねで人間関係が築かれていく。けれども、外部チャット(うちの場合はdiscord)を使っていると、普通のゲームとは次元の違う、濃密な人間関係が短期間で生まれていく。

 

最初は攻略トークだったり、作戦検討だったり、戦争になってからは実況だったり、いずれにせよゲームチャットとして機能していたものが、いつの間にか雑談が一番楽しくなる。24時間、いつルームを覗いても、誰かしらが楽しくチャットしていて、いつでも自分が輪に入れる。いつでも退室できる。こんなに楽しい場はなかなかない。操作が忙しいゲームでは成立しない、シミュレーションならではの世界。こういう世界に1年浸るっていうのは、本当に濃い付き合いになる。

 

そんな気心の知れた仲間たちは、次のシーズンから、みんな別の道を歩むことになる。後継同盟を作ろう、という声は多かったものの、幹部陣が全員辞退した。素敵な同盟だったから、このまま綺麗に終わろうよ、となった。とても不思議な解散だと思う。

 

嬉しいことに、同盟の解散が決まったあと、たくさんの勧誘の声をいただいた。かつての戦友だったり、戦場で何度も潰しあった好敵手だったり。たぶん、移籍すれば、また違った楽しさがあるんだろうなと思う。でも辞退した。1シーズンだけソロでのんびり余生を楽しみ、そのままフェードアウトするつもり。楽しかった同盟の行く末を少しだけ見届けたい。それまで余韻を楽しもうかなと。

 

今の気持ちは、クラスメイトみんなの進路がバラバラなのはわかっているけど、昨日まで学校があったからまだ実感がわかない、卒業式みたいな感じ。アホなことばかり書いていたチャットルームに、1人、また1人、思い出話とお別れの言葉を書き足していく。クラスの黒板を見ているみたい。1年一緒にゲームを遊んでいただけで、こんなにせつない気持ちになれる。

 

気に入ったネトゲは長く遊ぶほうなので、これまでも何年も遊んだゲームがいくつもある。当然ながら、遊んできたゲームの数だけ卒業してきた。楽しい時間はいつか必ず終わりがくる。サービス終了で終わったこともあるし、ギルドや同盟の解散がきっかけになったこともある。どんな形で離れたにせよ、どれも本当に楽しかった。ゲームを目一杯遊ぶために仕事もがんばった。幸せな思い出が、ずっとたくさん残っている。

 

思い出に残る、素敵なゲームと仲間に出会えて、本当によかった。

同盟員は誰も見ていない場所だけど、ちょっぴりおセンチな気持ちになったので、いつか思い出せるように書き残しておく。みんな、本当にありがとう。いつか、またどこかの戦場で。

 

幸福と教育の国、フィンランド

フィンランドに34歳の女性首相が誕生した。日本人の感覚だと若さに驚いてしまうが、そもそもフィンランドの議員の平均年齢は47歳と若い(日本は57歳)。しかも女性議員の割合は46%もの高さを誇り、政権与党(連立政権)の4人の党首は全員が女性だ。女性が要職についただけでニュースになる日本との違いに驚くばかり。なお、日本の女性議員割合は14%だそうだ。

 

フィンランドという国は、日本だとサンタとムーミンの国、というイメージだろうか。少し詳しい人ならノキアとサウナとサルミアッキが出てくるだろう。

 

これらのキーワードと並んで、フィンランドはしばしば教育先進国として紹介される。たとえば国際学力比較調査(PISA)では総合1位の常連だが、年間授業数は少なく、OECD加盟国で最下位だとか。日本と比較すると40日少ないそうだ。加えて、塾の文化がなく(または極めて少なく)、学習は学校でしっかりと修め、しっかりと遊んでいる。オンとオフの切り替えがしっかりしていると想像する。

 

ならば、きっと優れたカリキュラムを持ち、それが実践されていると考えるのが自然だ。世界中の教育者がフィンランドに学ぼうとした。特徴的な部分については解説サイトや文献が大量にあるので割愛するが、なかでも意外に感じるのは「平均を重視している」ことだろうか。

 

1クラスの生徒は20人ほどの少人数で、成績が低い子を底上げすることを重視し、学校内の平均学力を高めて教育格差を広げない。アメリカや中国、インドといった大国は、才能を重視し、特待制度を充実させたり進学コースを特化させたりといった、学力上位層を伸ばすことに力を入れている。ただし、その上位層となるには、多くの場合は多大な財力を必要とする。

 

これはどちらが優れている、という性質のものではない。国民性の違いや経済の規模、人口の規模など多くの要素の兼ね合いで決まるものだが、一般教育によって平均学力を高めたフィンランドが、学力世界一というのは興味深い。

 

フィンランドがこうしたスタイルをとれる最大の理由は、もちろん国策にある。フィンランドは多くの北欧諸国と同様に重税の国だが、その用途を教育に大きく振り分けている。フィンランドでは大学院まで学費がなく、給食費も不要。文房具も支給だ。さらには、両親の収入・就業状況にかかわらず、0歳から保育園が完備されている。

 

これだけの高福祉を実現できる財源は当然税金だ。フィンランドは消費税が24%、住民税が約19%。いずれも日本の2倍近い。税金の国民負担率(収入のうち何割が税金になるか)でいうと、日本は42%、フィンランドは65%。たとえば日本で年収300万円の人は、手取り172万円ほどになるが、フィンランドでは手取り105万円ということだ。

 

重税というと、いかにも生活が苦しいイメージがわくと思うが、フィンランドにはもう1つ、世界に誇るランキングがある。「幸福度世界一(※2018年。日本は62位)」だ。前述したように学校の束縛時間が短いだけでなく、労働時間も短い。ワークライフバランスを高い次元で維持できている。国土が狭く、人口も少ないため経済規模は小さいが、国民1人あたりのGDPは日本の1.25倍ほどになる。むしろ、相対的に裕福な国と言っていいだろう。さらに言えば、「移民にとっての幸福度」も世界一(※日本は25位)。中の人も、外から見た人も、外から中に行った人も、みんな「いい国だな」という感想を持っている。自国の芝生が一番青い、なんて素敵なことだろう。

 

フィンランドは決して伝統的に教育先進国だったわけではない。むしろ、フィンランドが教育レベルで注目されたのは20世紀末のことで、1994年の教育改革が大きな役割を果たしたとされている。わずか26年前のことだ。

 

加えて、決して裕福な国でもなかった。携帯電話、パソコン、インターネットの普及によって、農業国からハイテク工業国に転身し、そこから劇的に国力が増した。世界経済フォーラムによる国際競争力ランキングでは、2001年に初の1位に輝いているが、このレポートにある短評でも「過去10年間でめざましい転換を遂げた」とある。国の成長とほぼ歩みを同じくして、教育分野が大きく飛躍していったわけだ。

 

20世紀末頃からだろうか、日本でも「フィンランドの教育システムから学ぼう」という気運が高まったことがある。多くの関連書籍が出版され、そのカリキュラムを取り入れた塾が生まれ、学校教育に取り入れようという動きもあった。一部に活かされた部分もあったとは思うが、それから20数年が経った現在に至って、これといった成果は聞こえてこない。他の国を見渡しても、教育改革に成功したという事例は聞かない(※筆者が不勉強なせいかも)。思うに、変わろうとしたときに必要なのは、まず政治なのだろう。

 

日本人は勤勉で社会性を重視し、シャイな国民性だと言われる。ヨーロッパ圏においては、フィンランドがまったく同じ評価を受けているそうだ。また、国土が狭く、資源にとぼしく、敗戦を経て技術立国として復興を遂げたなど、フィンランドと日本には共通項が多いように思う。日本が学ぶ対象として、まさに理想的な国ではないだろうか。

 

皮肉な話だが、フィンランドが自国を教育大国にすべく舵切りを決断したとき、日本の教育システムが参考にされていたそうだ。日本から学び、取捨選択し、自国に最適なカスタムを施して、政治から国を変えた成果として、現在のフィンランドがある。今度は立場を逆にして、まったく同じことを、いつか日本もできるだろうか。

語彙力を考える

「語彙力」は、言葉の意味そのままで受け取れば、どれだけ言葉を知っているかを指す。その言葉を使いこなす力、というニュアンスも併せ持つ。

 

「知っている」ことと「使いこなす」ことの間には大きな隔たりがある。語彙と教養を兼ね備えた人は、相手に伝わる言葉を選んで使う。この「選んで使う」ために必要なのが語彙力だと思う。決して、画数が多い漢字や難読字、専門用語を多用することではない。相手に意図が伝わらなかったり、誤解を生むようであれば、むしろそのムダに豊かな表現力はマイナスでしかない。「語彙力がある」とは思えない。

 

IT系の人がインタビューでイキり倒した面白カタカナ語を連発すると、さっぱり頭に入ってこないうえに面白くなってしまうのは、読んでいる側が門外漢だからだ。その言葉を日常的に使う人にとっては、それが当然なので決してギャグではない。

※ネタでいじりまくってる例はこういうの

 

「日本語でいいやんけ!」「かえって文字数増えてるじゃん!」と思うことが多々あるカタカナ語だが、こういうのは定着した方が強い。PCといったら、もう多くの人はパソコンだとわかるだろう。だがひと昔前は、パソコンが伝わらなかった。パーソナルコンピュータの略と言っても本質的な解決にはならない。当時は、そもそもそれが何だか伝わらないからだ。ちなみに日本語では「個人用電子計算機」となる(著作権法にも出てくる正規表現)。こんな言葉で会話してる人、見たことない。つまり、コンピュータという言葉を使い、電子計算機と言わないのが、相手に合わせた適切な言葉遣いということだ。

 

ライトノベルの文章が年輩から受け入れられないのは、この「適切な言葉遣い」という部分だろう。基本の文章は平易なのに、やたら画数の多い漢字を多用し、非日常的な単語を散りばめ、なんならそこに個性あふれるルビをふる。その難読字が似合う文章であれば、文学として別の評価も得られただろうに。このチグハグさが、歳の数だけ読書量が増え、美しい文章を数多く目にしてきた層には、くすぐったくなってしまうのだろう。

 

一方で、だからこそ若者に支持される側面もある。たとえば「赤い血」と書けばいいところを、「紅い血」「朱い血」「赫い血」と書く。年配が見ると、見慣れない表現は恥ずかしい、もしくは痛々しく感じる。だが、スポンジのような吸収力がある瑞々しい感性は、見慣れない表現は好奇心をくすぐり、イメージを広げてくれる素材だ。いわゆる中二病に開眼するには、凡百の人間が使う言葉ではいけないのだ。とはいえそこは中学生、すべてをその調子で書かれてしまうと文章が読めない。だから文章は単純明快に、ここ一番では見慣れないカッコいい単語。この組み合わせが嗜好にストライクだったと想像する。

 

少し話を変えて、芥川賞というと、お堅い文章を想像しないだろうか。もちろんお堅い、難読字にまみれた、読み手に一定以上の教養を要求してくる文学作品も多々ある。だが、受賞作の小説は、決して難解な文章ばかりではない。たとえば「博士が愛した数式」がベストセラーとなった小川洋子は、「妊娠カレンダー」で芥川賞を受賞している。小川洋子の文章は、きわめて平易で、中学生くらいでも非常に読みやすく、そして難しい言葉を使わない。実に美しい文章を書く人だと思う。難しい言葉を使わずとも、文章のテイストにあった適切な言葉を選び、つむいでいき、その文章によって読み手の心をヒダを動かしていく。語彙力のある人の、理想的な姿だと思う。

 

それはそれとして、実際に日常で使うかはともかく、単純に知識として楽しい言葉もある。なんとなく辞書を読みふけったり、wikipediaを読み出すと止まらなくなる人なら同意してもらえるだろうか。特に使い道がない言葉でも、脳みそのどこかにストックすることで、ほんのちょっぴり知的好奇心が満たされる。まあ、ほとんどは忘れてしまうのだけれど。

 

最近、ぼーっと語源を調べていて面白かったのが、「おたんこなす」。

なんか力が抜ける響きであり、ある程度は相手をバカにしたいが、本気で傷つけたくはない…みたいな絶妙な力加減の悪口で、ちょっと気に入っている。しかし、意味は知らなかったので、気まぐれでググってみた。

 

もともとは吉原の遊女が使う言葉だったようで、最初に生まれたのは「おたんちん」。遊女が嫌いな客をバカにする言葉だそうだ。その意味は、「お短」+「ちんこ」。説明するのもアレだけど、まあ要するに「お前の母ちゃんでべそ」的な、実際にどうかは関係なく、相手をバカにするためだけに生まれた言葉ということだろう。「短小野郎」だと救いがない悪口だが、「おたんちん」だとなんだか憎めない。これが転じて、「おたんこなす」になった。ちなみに「こなす」は、そのまんま「小茄子」。これも小さいちんこの隠語。要するに、「ちんこはひねりが足りないな」ということで、「お短」+「小茄子」になったようだ。なんだか小粋な悪口だと思う。

 

わかってみるとベタなシモネタではあるが、遊女があっかんべーをしながら「おたんこなす!」って言っているところを想像すると、なんだかほっこりする。言葉の力だと思う。小さいちんこを表現するにも、これだけ幅があり、使い手の印象を変え、もともとの意味がわからずともニュアンスだけは伝わるほどの力を持っているのだ。

 

ここから無理やり話題を戻すのも恥ずかしいが、こういった言葉の引き出しを豊富に備え、その大量のストックから適切な用途で単語を引き出してくる力。教養や品性、そういった表に出ない知性を総合的に表すものが、「語彙力」なのだと、そういう話を書きたかった次第。

 

 

 

 

どうしよ平八郎の乱

ギャル語(かどうか不明なものも含め)のネットミームは語感だけで勝負しているものが多く、意味はほとんどない。それでもなんとなくわかるのが面白いところで、語感がいいから使いたくなる。

 

これはギャル発(ないしギャルが言いそうな言葉)なのがいいところで、若年層特有の熱狂的な拡散力があり、それでいて終息も速い。その「瞬間的な良さ」がわからないのがおっさんの悲しさだ。おっさんがのっかってくる頃にはすでにブームは終わっている。これがまた味わいがある。あまりの遅れっぷりがいっそ面白いことがある。「やばたにえん」が瞬間的にはやったのは2016年らしい。4年も前。それでもしつこく使っているのは、かつて自分が使っていたギャルが自虐的・自嘲的に使っているか、盛大に出遅れていることに気づかないおっさんだろう。言い過ぎ。

 

おっさんは事あるごとにダジャレを言う。オヤジギャグと呼ばれる。

「布団が吹っ飛んだ」くらいならまだ良い。場があったまっていれば勢いで笑える。「雷はもうたくサンダー」のようにひねってこられると、一瞬わからないだけに遅れてジワジワくることもある。しょぼい英語力も微笑ましい。「運動場つかっていい?」「うん、どうじょ」まで攻めてくると、ツボが浅い人なら呼吸困難になるほど笑える可能性もある。

 

だが待ってほしい。「やばたにえん」と「布団が吹っ飛んだ」では何が違うのか。後者のほうが適切なダジャレになっている。「ヤバイ」と「永谷園」の共通点など、母音だけではないのか。なぜ前者は若者の間で流行し、後者は若者を凍りつかせるのか。

 

「やばたにえん」がはやった当時は、瞬間的に無数のオヤジギャグっぽい言い回しが流行した。「サスガダファミリア」や「江戸川意味わか乱歩」など、微妙に最低ラインの教養がないとクスリとできないやつ。まるっきりオヤジギャグだと思うんだが、こういうのは同じ時代を共有しているがゆえの共感力と拡散力がある。3回くらいは使ってみたくなる。

 

一方で、この亜流に「了解道中膝栗毛」や「どうしよ平八郎の乱」などがある。実にうまいなと感心してしまう。なんなら現役で使っている。

 

だがしかし、これらの言葉を編み出したのはおっさんである。ギャル語をいじるというか、流行にのっかって生まれた。定番の言葉をちょっとひねって語感だけで使うのは、まさにおっさんの得意分野。うまいに決まっている。個人的にはこれも爆発的に流行ってしかるべきと思っていたが、思ったより流行らなかったし、いまだに知らない人が多い。言うまでもなく筆者はおっさんであり、若者たちの感性とちょっとズレている。期せずして、おっさんは本質的に若者言語を完全には理解できていないことの証明となってしまった。でも最高に使いやすいんだけどなぁ、「どうしよ平八郎の乱」…。

 

ここまで書いたところで、「そもそも膝栗毛ってなんぞ」と思うにいたった。

学生時代に「東海道中膝栗毛」という十返舎一九の本があったことくらいは知っている。弥次さん喜多さんのコミカルな旅行記だというのもほんのりわかる。でも膝栗毛ってなんだよ。

 

これは同じ疑問をもった人が多かったようで、ググったらあっさり解決した。「栗毛」は馬の毛色のことで、栗色の毛。そのまんまの意味。「膝栗毛」は「自分のヒザを馬の代わりにすること」、つまり「徒歩」をシャレた言い回しにしたわけだ。別にスネ毛が濃い話ではない。

※競馬をやる人なら、栗毛の名馬といえばオルフェーブルあたりか。少し前ならテイエムオペラオー。往年のファンならテンポイントが出てくるかな。

 

東海道中膝栗毛」は、一度も読んだことがなくても、タイトルだけは学校を出て何年経っても覚えている人が多いことだろう。だが「東海道中徒歩旅行」だったらどうだったか。ここまで記憶に残っただろうか。意味がわからなくても「膝栗毛」を覚えていられる、タイトルのセンスの良さを感じないだろうか。「墾田永年私財法」みたいなものだ。脳裏から離れない。どういう法律かは覚えてないのに。

 

そもそも、日本人は七五調のリズムが大好きだ。

いろは歌だって、蛍の光だって、童謡や唱歌なんかでもだいたい七五調。校歌が七五調だった学校も多いだろう。だからだいたい、このへんの歌は歌詞をシャッフルしても歌える。歌謡曲にも多いし、JPOPやアニソンだって多い。水戸黄門の「ああ人生に涙あり」の節で「どんぐりころころ」や「アンダルシアに憧れて」、「ギザギザハートの子守唄」を熱唱できる。文系の学生だったら詩をそらんじることもできる。「ああ、弟よ、君を泣く、君死にたまふことなかれ」で始まる与謝野晶子の有名な詩は、最後の行まで美しい七五調だ。

 

もう最初なんの話を書いていたか忘れた。この主題の逸れっぷりもおっさんの真骨頂だ。

 

とりあえずまとめに入るべく冒頭を読み返してみたところ、要するに「もうやばたにえん使ってる人がやばたにえん」という話を書くはずだったが、ギャルもおっさんも、ひいては日本人はみんなダジャレが大好きということでまとめたいと思う。優しい世界。

 

そもそもギャルとか今どき言わないし、ギャルにカテゴリーされる若者は「ぴえん」も卒業しようとしている。そうなれば「ぱおん」だって古典だ。でもそれでいい。人がJCでいられるのは3年。JKだって3年なのだ。3年以上続くのは流行語ではなく、現代語に格上げされる。現代語になってしまえば、もう面白い言い回しではないのだ。

 

流行語大賞の歴代入賞語を見返してほしい。

すでに古典になっている言葉が多い…という以前に、ほんの1~2年前の言葉ですら寒々しいと思わないだろうか。

濃いネットウォッチャーならこっちの方が楽しい。

「止まるんじゃねぇぞ…」なんて向こう30年くらいは使っていきたい名言だが、初出2017年だった。そろそろ賞味期限が近い。これを使いまくっていたJCも今はJKだ。涼しい顔して「昔はやったよね」で流されるだろう。「うそやん…3年とか一瞬やん…」と思ってしまったらもうこちら側の人間だ。

 

話を戻そうと思ったのに戻りきっていなかった。そもそもこの文章に主題があったのかどうかも疑わしい。

 

この文章を読むことで何も得るものがなかったとしても、何かが心のヒダに触れたとしても、明日は明日の風が吹く。ただ寝て起きてご飯たべてうんこするだけの日々だったとしても、貴方にとって今日が素敵な1日になりますように。